映画「桐島、部活やめるってよ」

遅ればせながらDVDで観た。確か3月頃。

原作をざっとしか読んでいないが、とても面白い。恐らく、原作より良いんではないだろうか。あるいは、原作とは違うものになっている。

形式としては、高校生たちの一人称で語られる原作を踏襲してか、それぞれの視点から映像が展開される。同じ映像が何度か繰り返されるが、視点が異なるとまったく異なるエピソードとなる。
(同一場面、多視点の反復by中森明夫、これはタランティーノの「レザボア・ドッグス」を彷彿とさせるそうだ。タランティーノの名前はゾンビ映画を観たあと神木龍之介演ずる涼也が言及する)

ネット上で見た、中森明夫による批評がすばらしいと思った。中森明夫氏による映画「桐島、部活やめるってよ」のレビューが素晴らしい件【ややネタバレ】 - NAVER まとめ

中森氏はこの映画は映画への批評であり、もはや青春映画が成り立たないことを示していると言っている。
確かに映画部の男の子たちは映画の冒頭に登場するし、彼らの映画製作と物語は同時進行であることから、この映画の批評的視線は明らかだ。

桐島=青春映画の神、つまりゴドー、キリスト 
だと中森は言う。

そして桐島は現れず、「桐島が来た!」とさまざまな立ち位置の高校生たちが大集合する屋上では、オタク映画部員たちが学園ゾンビ映画を撮っている。
熱血っぽい(つまり今はもう成立しない昔の青春映画に出てきそうな)バレー部の男の子が映画部員たちを殴る。大乱闘。でも映画部員たちは立ち向かう。ゾンビの格好をして。

でも中森的視点は映画の形式に注目しすぎていて、最後で宏樹(東出昌大)がカメラを向けられて、「俺はいいよ」とうっと泣きそうになる、そんなところを見逃しているように思う。ぐうぜん一緒に借りた「ヘルタースケルター」でもそうだったが、この虚無感、空虚さ。何もやることはない、
すべてがただ時間をつぶすものとして過ぎていってしまう。宏樹は恋愛にも野球にもバスケにも熱中しない(あのやる気のないキス!)。桐島の不在は彼の空虚さそのものを映し出しているようでもある。

宏樹は野球部の幽霊部員であるが、ときどき現れる野球部の先輩(高橋周平)がパンチが効いている。
下手なのに、ドラフトが終わるまでひたすら練習するださい先輩。
その先輩と宏樹の対比。彼の前では、何かを動かされているようでもある宏樹。

そしてゾンビが含意するもの。
ゾンビ映画のルーツは社会批判であったというが、そんな意味もあるのだろうか。
女の子たちの描写もすごい。あるある、という感じ。
高校生って面倒くさい時代だったなあ…
とにかくいろいろ考えさせられる映画だった。